孤児の父 石井十次の墓

先日西都方面の活動の帰りに偶然「石井十次の墓」の矢印を見つけ、日が暮れる前だったので、立ち寄らせてお参りをさせていただきました。


宮崎県を代表する偉人の1人のお墓に参ることができ、よかったです。場所はひっそりした岡の頂上近くで、周りにははたけなどがある場所で、お墓も駐車場と広場があり、桜が咲いてきれいでしたが、ひっそりと安置されている感じでした。


 昔、ラジオ番組「ハッピーカフェ」で「石井十次」を取り上げたことがありましたので、その時のブログも載せさせていただきました。


 石井 十次(いしい じゅうじ・1865年5月5日 - 1914年1月30日)宮崎県児湯郡高鍋町馬場原(こゆぐん たかなべちょう ばばのはる)に生まれました。


 明治期の慈善事業家として有名です。


 岡山孤児院を創設し、その功績から、「児童福祉の父」と言われています。
彼は岡山で医師を目指して、岡山医学校(現在の岡山大学医学部)の医学生として研修中に、ある孤児を引き取ったことを経緯に、キリスト教信仰に根ざした孤児事業に専念する人生を選び、医師として働くことを断念し生涯を孤児救済に捧げました。


 キリスト教の信仰をベースにして岡山孤児院を創設しています。岡山孤児院は現在は存在しませんが、石井記念友愛社(宮崎県)と石井記念愛染園(大阪府)が後を引き継ぎ、各種の福祉活動をおこなっています。十次自身熱心なキリスト教信者でした。


 現在のような豊かな時代とは違い、「福祉」という言葉さえ定着していなかった明治20年に、22歳の若さで孤児救済の事業に着手した石井十次、彼が我が国の児童福祉の先駆者です。


 石井十次は、施設を「教育院にして養育院にあらず」として、ただ単に食べさせるだけではなく、「社会に出て社会に貢献する活力ある人物を輩出せしむる」という、教育観を持っていました。


 労働を通じて教育をすることが大切であるとの信念のもと、実に3,000人を越す孤児救済に生涯を捧げました。 


 石井十次を支えたのが、倉敷紡績の社長の大原孫三郎です。大原美術館を建てた篤志家です。運営においては、石井十次はたくさんの人から資金援助してもらっています。多くの方の心を動かした救済事業でした。


 約7000人が死んだと言われる濃尾地震や東北の大飢饉東北地方(冷害による大飢饉)のとき、多くの子どもたちが親に捨てられたり、売られたりする中、石井十次はたくさんの孤児を引き受けたのです。親がいても貧しくて育てることができない子どもも引き取りました。この石井十次の活躍のニュースはアメリカにもが伝えられました。


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